そんな疑問に答える本記事です。
こんにちは。いちかわともや(@tomochan8282)です。
現役のフリーランスエンジニアであり、僕が侍エンジニア塾の6ヶ月コースを受講していた時の講師・Kさんにインタビューを行いました。
本記事では、現役のフリーランスエンジニア講師から、エンジニアになるために大切なことを伺います。
もくじ
【侍エンジニア塾・講師】が語る、エンジニアになれる人
転職したのは39歳の時
また、ベトナム人やスリランカ人などの留学生に対して、専門学校で情報系の授業をしています。WEBデザインなどを専門科目で教えています。今年で10年目です。
それ以前は、大手プロバイダや大手ECサイトでディレクターを8年間やっていました。
もっと前には、千葉県の中高一貫校で音楽の教員をしていました。15年間です。
どれほどの速さでモーツァルトを語っても、全員がついてきちゃうような学校でした。ちゃんと理解をして宿題も出してくるわけです。
15年間教壇に立っていましたが、それがだんだんつまらなくなってきちゃいました。
そして自分に課したんです。そんなに偉ぶって教えるんだったら、全てを捨てても一度世界で戦ってみなさいよと。
そして、2000年になった時に IT業界で自分の力を試すことにしました。転職をしたのは39歳の時ですね。
ホームページを作りまくる
ところが全然だめでした。経歴がないし歳だし。ある日、マンションの一室みたいなところに面接に行きました。
そこは、ホームページを立ち上げればうまくいくだろうという概念だけで立ち上げた会社で、10人くらい応募してきているみたいでしたが、営業は見つかったけど、肝心のホームページを作る人がいなかったんです。
そこで、ぼくに作らせて下さいと立候補しました。
2000年はインターネットが始まったくらいの年でした。 I モードを持っている人が2000万人 。
常時接続にはなっていないので、インターネットをやるためには電話をかけないといけない時代でした。
今のように、サイトのソースコードをみながら真似して作ることもできない。そんな状況の中で、師匠はどうやって一番最初のホームページを作り上げたんですか?
移動通信と専用回線を引いてサーバーも用意しないといけない。そしてドメインを取りました。
ドメインネームサーバーを立ち上げてドメインとサーバーを紐づけました。
Googleも書籍も無い中で
当時はGoogleもなかったはずです。どうやってサーバーとドメインを紐づける方法を学んだんですか?
唯一あったのが、洋書屋です。予算も無いので、洋書屋へ行って英語の書籍を覚えて帰るしかないという極限状態でした。そのくらい追い込みました。
これを明後日までに持って行きますねという話をしてくるわけです。営業の人たちはホームページを立ち上げる方法をわかっていない。公開する方法もわかっていない。
お客さんもホームページを作るということが、どういうことなのかわかっていない。そういう状況の中でひたすら作っていました。
壁にぶち当たった時
Livedoorに入社してスーパーバイザーになった時、サーバーも立ち上げられる、ドメインも取得できる、紐づけもできる、あなたは全てできるんですね。ということで机とスーパーコンピューターが用意されていたわけです。
サーバーを立ち上げる技術者は何人もいましたし、デザイナーの人もいるわけです。この中で話をしていかなくちゃいけない。
これはつらかったですね。 失敗がダメなんですもん。今日のアジェンダは何ですかKさん?って言われてもアジェンダって何ですか?って話ですよ。なに?って聞いちゃダメなんですよ。
またKさん失敗してるね。と言われても次の日にはもう失敗しない。
何度も落ち込みました。しかもぼくは肝炎でいつもだるい状態でした。
千葉に住んでいるので、夜の12時になったらすいません帰らせてくださいって。でも帰る元気なんてありゃしないんですよ。 帰る体力を回復するために30分でもいいから渋谷の地下道で寝ていました。
極端な話、21世紀になってから自力で眠ったことはありません。
仕事の帰り道の電柱に書かれている電話番号とか全部言えるんですよ。プリズンブレイクの主人公ですよぼくは。
おまけに、C型肝炎です。今は完治したんですが、治すまでの過程を全てTwitterにつぶやきました。まあかっこいいですよ!
音楽とITの通じるところ
今振り返ってみて、音楽でやられていたことがITで生きているなと実感されたことは、ありますか?
どうやって人を感動させられるかとか。ホームページでですね。初めてHTMLのソースを見た時はすげーと思いました。インデントがすげー綺麗とか。たまにコメントアウトに愚痴が入ってるなとか。笑。
音符と通じるところがあるんですかね。モーツァルトは頭ん中で鳴っている全ての楽器を音符に書いてるわけじゃないですか。paddingやらPhotoshopやらインデントやらが全部思い浮かんでて書いてるわけじゃないですか。
音大に入って2年目の時に、日本で唯一Apple 2を扱っているお店にアルバイトに行きました。いい考えでしょ。その店に買いに来た人たち相手に使い方を教えたりもしていました。
音を出せる時間はサックス。音を出せない時間になったらコンピュータという感じですね。
音楽の教師時代にも受験生4000人の点数を並び替えるプログラムを組んだりもしていました。
ところが高校3年生の時に赤緑色弱であることが分かったんです。 医学部・工学部・薬学部は赤緑色弱は受験することができなかった。だから文系に行くしかなかったんです。 宮沢賢治を目指すしかなくなったわけです。
理系の頭を持ったまま音大に行きました。
侍エンジニア塾講師が語る、エンジニアに向いているタイプ
教育のお仕事に長く従事されている師匠は、いろんなタイプの生徒さんと接してこられたと思うんです。
そんな中で、プログラミングに向いている、エンジニアに向いている方というのはどういうタイプの方ですかね?
その次は、何を調べればいいかの言葉を考えつく人。 後は諦めない人ですね。ゴールに対して諦めないということと、今やっていることに対して諦めないこと。どんなに間違っていてもゴールに到達するまでやっていく人。
とは言いつつも、頑張らないでもできる人が一番カッコいいですよね。
クラウドワークス社のディレクターも行っています。企業サイトのURLを集めて種類別に分類したりとか、結婚式場サイトのディレクションもやっています。スケジュールコントロールですね。振り分けとか。
Progateを卒業したあとは
市川さんもとりあえず仕事とってきちゃいましたよね。とりあえず仕事とってきてオッケー出るようにする。
フリーランスの考え方としては、半分ぐらいに分かれるんですけど、こんな安い仕事ばっかりやってて自分はプログラミングスクールにいくらのレッスン代を払っていると思ってるんだ!と伝えてくる方もいらっしゃいます。
いつになったら何十万稼げるんでしょうかとか。今この10円の仕事をやらないとダメですかって。じゃあそれ以外の何万円の仕事を今できるんですか??とは言わないですよ。
未だに商品登録してますよ、ぼくだって。最初はクラウドワークスで1円でも2円でも貰うという経験をするのが大事ですよね。
12月も仕事をたくさんこなしました。クラウドワークスとそこから派生したもので。
ランサーズからは12月にWordPressサイトを数十個作ってほしいと言われました。
クライアントとのやりとりは LINEでした。ドメインの指定はありましたがそれだけです。
ディレクション側でも行ったのですが、朽ち果てて半数しか作れませんでしたけど。
なんでそんなことができるんですか?寝ているんですか?
週に数回数時間の課題添削や、数名のオンラインレッスンも行っています。
昨日WordPress 受注しちゃってましたね。
クラウドワークス始めてまだ4ヶ月なのに、11件も受注しちゃってますよ。
それは僕も辿った道なので嬉しいですね。
いやー感動しますよ。まあ根性がありますね。
やり続ける
制作やディレクションの道を教えるだけではなくて、教える方を教えるという考えもあるのかなと思っています。
現職はそのうち退職をするので、これからはずっと家にいようかなと考えてもいます。好きな時間にレッスンをしたり、好きな時間にディレクションしたりとか、完全にフリーになりますね。極端な話、国内じゃなくてもいいわけでしょ。
でも水を掻くのをやめたら沈んでしまうので、やり続けないといけないわけですよ。なので企業という形にするのか、チームを組んでやっていくのかを色々考えています。もしくは会社に身をゆだねるのか。
グループでやったりリーダーになっちゃったりすると責任ができちゃうでしょ。そうすると、いつまでにこれをやらなくちゃダメという感じで辛く当たっちゃうかもしれない。
それを考えると雇われていた方が楽かもしれないですね。こういうことを考えているのは楽しいですね。
数々の逆境に直面しながらも立ち向かい、問題を解決してきた。これがまさにエンジニアにとって必要不可欠なメンタルだと感じました。
今回の記事は、偉人伝・K伝説みたいな形でまとめたいと思います。笑
貴重なお話を伺うことができました。今日はありがとうございました!
僕が侍エンジニア塾で学習をした記録をまとめています↓↓
エンジニアになるには、どんなことが大切なんだろう??